この混沌とした世界に、大和魂の力でメスを入れ、 そしてそれが幽遠でなくなる日が来ることを祈りつつ、 現代日本の指針を啓示するものとして、これを記す。

2007年5月26日土曜日

頂きます考

最近、「勿体ない」と言う日本語が、[Mottainai]として世界的に脚光を浴びているという。
しかし、世界の人々(特に特亜・欧米人)がそれをどのようにとらえているかと言えば、
やはり「合理的(にするためにかぶることを省く)」だと思う。少なくとも、中・欧米人の価値観からすれば、合理的で楽で金が入るのが一番だからだ。
しかし、じっさいの「勿体ない」は合理的というものからはほど遠い。
ようは、繕い直すより新しいの買ってきた方がよほど時間の得、と言うわけである。
つまり、時債の日本語の感覚とは、全く違う理解がされているのだ。
これと同じことが、「頂きます」でもいえる。さらに悪いのは、これは他国の感覚が逆輸入され定着しつつあることである。
たとえば、英語では食事の前に[Let's eat]と言う。中学校課程ではこれは「頂きますと訳せ」と教えられるが、これは全くの嘘である。これは直訳通り「さあ喰うぞ」と訳すのが正しい。なぜなら、欧米の宗教観では、動物というのは人間が食べるために作られたものだからだ。宗教という抽象概念で論ずるのが嫌いな人のために、一応以下のように解説しておく。
[Let's]は[Let us]の略だが、この使役動詞[Let]には「(私ハシタイト欲シテイルノデドウカ私ニ)させてください」と言う意味で、「したい」「やりたい」と言う欲が前面に出たものである。欲、つまり自らの意志が出てくるから丁寧ではない、と言うことにも成るのだが、そちらは本題ではないので。欲が出ている=親しい関係のみでのみ許されるのである。
だから、家族間での食事くらいにしか、これは使われない。大きな集会となると
主催者が[Please, help your self.(ご自由にどうぞ)]
といって、[Thank you.]で食べ始めることになる。
であるから、欲という面も含めて[Let's eat]を訳せば、「ああ腹減った。おおこれは旨そうなバッファローではないか、よし、皆のもの、喰ってやれ!」と言うことになる。
ここに捧げられた命に対する感謝、作ることに労務した人への感謝はみじんも含まれていない。たいして、「頂きます」は、それ自体が「敬語」である。自らは一歩引いたものとして見ているのである。そして、合掌するか、二拍手して「頂きます」という。これは神社で神々にするのと同じ動作である。もっとも、近頃の日本人は知らないかもしれない。手すすぎ、口すすぎの作法さえ知らず、氏神様にお参りもせずに稲荷・寺に「初詣」に向かう「エセ日本人」が増えているから。しかし、そのことは後日お伝えするとして、とにかく、このように神にするのと同じ行為を、食べ物となった命に対してするのだ。そこにあるのは、感謝と生命に対する畏怖である。
この考え方は日本では常識であったが、最近ではそうではないらしい。
小学生の子を持つ母親が、学校に対し、「金払ってんだから(給食の時に)頂きますなんか言わすんじゃねぇ」と暴言を吐いたと話題になったことがあったが、最近その風潮が再燃中である。しかも、もっと悪いことに、馬鹿親ではなく、彼らの子供らの間で。たとえばレストラン、出るときには「お世話様でした」と言うのが正式のマナーなのだが、「ごちそうさま」は百歩譲ってゆるすとして、「金払ってるんだから、仕事なんだから世話してくれて当たり前」
と考える馬鹿がいる。彼らは家でもそうなのだろうか?合掌して、二拍手して「頂きます。」
食べ終わったら「ごちそうさま。」これだから何かしてもらっても「ありがとう」といえず、迷惑をかけても自分が中心、あんたが悪いで「済みません」がいえない。国際社会ではともかく、この狭い日本である。いがみ合わない方法はこれしかないのだ。感謝して、謝って、許し合って、馴れ合って。できない奴は大八州(これが読めない人間がおるというのが情けない)
から追い出してしまえ。どうせ人口密度高すぎの就職戦闘激しすぎの国なのだ。日本が狭いと言うことを理解せずにグローバルを叫ぶ奴らは消えてください。

0 件のコメント: