この混沌とした世界に、大和魂の力でメスを入れ、 そしてそれが幽遠でなくなる日が来ることを祈りつつ、 現代日本の指針を啓示するものとして、これを記す。

2009年7月29日水曜日

言論弾圧を考えてみようか・・・

なんやかんやで忙しかった・・・というとただの良いわけになりますが、約半年ぶりの更新となってしまいました。

さて、今日はちょっと過激に行きます・・・・
言論弾圧・・・つまり、表現の自由の抑圧を考えてみたいと思います。

面倒なので、はじめに結論を言います。
ある程度の言論弾圧は「是」でしょう。
「そんなことをすれば意見が言えなくなるじゃないか」という前に、ちょっと考えてください。

「意見」は、「言う自由」がないと言えないんですか?
そんなもん意見じゃないですよ。「私見」ですよ。
本当に大事だと思っていて、はっきりとした「意見」ならば、命に代えても言うでしょう。
逆に言えば、自由があるから言って、ないなら黙っているようなのは、はなっから言う意味なんてないのです。これは今回の記事の根幹なのではじめにお断りします。

さて、では本題に入ります。
仮に「言論弾圧」がある、としましょう。
弾圧対象の論者はまず圧力を受け、続いて迫害を受け、最終的には政治犯として投獄されるでしょう。
しかし、その論が本当に的を射ていたなら、そこまでの行動はできないのです。なぜなら、それが本当だと暗に認めることになるからです。
つまり、中途半端な「意見」が消され、論の「浄化」が行われる。
別に私は左派だけが弾圧を受けろと言ってるのではありません。
右派にも、詰めの甘い論があることは確かです。
双方とも、(度合いは違えど)浄化の必要があります。

まぁ、()内は重要っちゃ重要なんですが、また次の機会に・・・

それと、言論弾圧がもたらす「過激派抑制効果」も無視はできませんね。
戦中の治安維持法がまさにそれです。
治安維持法違反で検挙され、憲兵による拷問で死者を出したのは反省すべき点ではありますが、「治安維持法違反で死刑」は出ていないことは、よく覚えておく必要があります。
治安維持法違反者」とは、共産党を頂点とする過激赤化勢力ですが、時代を遡ることになりますが日比谷の焼き討ち事件など、首謀した連中です。
そうした連中が獄に入れられ、国家転覆を防止していたことは、注目に値します。
敗戦後、そうした連中がGHQによる軍属排斥で公職や大学教授に返り咲き、結果が大学闘争や今でも行われている反戦デモやメーデーです。
(そういえば、賃金上げろでメーデーやってる暇があるなら、ちゃんと働いた方が給料上がる可能性があるというか、そうやって働かない連中に給料だけ上げる会社はまずないと思いますが。)

今の日本、多少の言論弾圧が必要ではと思います。